2013年1月29日火曜日

「聞く」力とコミュニケーション




 本日、とある国際法の先生の研究室を訪ねました。来年度に宇宙法にゼミで少し触れるかも、とのことだったので、宇宙政治に興味のある私としてはいてもたってもいられなくなったわけです。その先生は、今年度英語ゼミも担当されておりまして、私は持病から欠席数が多く、非常に申し訳なかったのですが、堂々と国際法とは何か、とか、宇宙法の話も絡めたキャリアデザインについて、約2時間も話して頂けました。(こういうところ、察して要点をまとめて質問し、帰られない私はダメな学生なのですが)


 その結果、法学とキャリアについて少し再考することができました。元来、私は法学(=法解釈学)が食わず嫌いなところがありまして、法律を学ぶなんぞ「上から」の押し付けルールを受容するだけの権力の化け物になるだけだ、と考えていたんですね。法律とはリヴァイアサンのようなもので、リヴァイアサンを抑止するための正義を社会科学者は構築すべきなのだ、というのが信条でした。(しかし、社会的決定理論は絶対的民主主義など存在しないことを明らかに僕に示してくれました)今日の自分の中でのコペルニクス的転回は、利潤最大化を目指す各個人をセーブするアドバイザーとしての法律学徒の在り方でした。裁判での勝ち負けによる、捻じ曲げられた正義(正義は見方による?)の決着に着目するよりも、むしろ行為が起こるまさにその瞬間の人間の判断そのものに、リーガルマインドをいかに与えるか、という法学の役割に気づかされたのです。結果ではなく過程にこそ法律的視点は必要なのかもしれません。そう考えると、答え(答案)の結果にリーガルマインドを求めることの空虚さや、結果に至るまでの過程の大事さが身に染みます。


 とりあえず、「法学」についての話はここまでにします。


 この教授は、指導する立場にない(私はこの先生の授業は1コマしかとったことがありません。学士と教授に指導関係があるのかどうかは分かりません。今回はオフィスアワーとして利用したわけではありません)にも関わらず、親身に私のキャリアデザインを考えてくださいました。その中で、自分の専門分野の“私の”キャリアデザインの中での位置づけを一緒に考えてくださいました。


 見渡してみると中々このようなことができる方に巡り合ったことはありません。まず、第一に親身になって一緒に話を聞いていただけるだけの「聞く」力を持った方がそれほどいません。次に、自分の専門分野が相手の立場に置いてどのような位置に存するのかを理解できる人がそれほどいません。最後に、専門分野と実社会の結びつきを考慮に入れている方がそれほどいません。この三条件を満たす人に巡り合うことは、なかなか難しいのではないでしょうか。


 模擬国連で自分がアドバイスを求められたとすると、上の三条件を満たすように努力しないといけないですね。最初の「聞く」力。これ、あまり自分は持ってないので、高めたいですね。相手がいったいどういう考えを持っていて、どういう状況にいるのか。上手く把握しないといけません。次の条件、「専門分野が相手の立場においてどのような位置に存するか」。モギコク内での専門分野といえば、たぶんプロシージャーとディレクの仕事でしょう。この二つはなかなかに自信があります。けれども、自分は大会のディレクをやったのであって、研究会のディレクをやったわけではありません。相手がディレクとしての自分の体験、オーラルヒストリーを求めている場合は、相手が求めている自分の歴史を選別する必要があるでしょう。最後の条件、「専門分野と実社会の結びつき」。これは、うーん……。ディレクの体験でいうと、研究中の人間関係とか、大学の単位とか(苦笑)でしょうか。なかなか明確に、しかも負でなく正の印象を持ってもらうことは難しいように思いますね。逆に言えば、なのですが、ここで負の印象しか語れないことが、近年のディレク離れ(私は、ディレクになりたいと言う人が減ってきているように感じます)を生んでいるのかもしれません。ディレクの良さを具体的にはなかなか語れません。


 最後の条件は、もしかしたら、抽象的な専門分野の良さではなく、具体的な専門分野の良さを述べる、というふうに言い換えることができるのかもしれませんね。そうなると、文学的な比喩の素養も求められるような気がします。なんか大変になってきましたね。この辺で終わりにしましょう。


 今日の記事は、かなり書きなぐりの、結論の無いノートのようなものですが、お読みいただきありがとうございました。

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