2013年2月5日火曜日

この春に読みたい国際政治書


今回は、主に新メン・旧メンの――関東では新たに旧メン、老メンとなった――人々を対象にしてブログを書こうと思う。テーマは「この春に読みたい国際政治書」だ。

1年または2年模擬国連をやった皆さんは、このサークルの議論がいわゆる国際政治と切って切り離せない関係にあることを目の当たりにしたことだと思う。きっと、皆さんは模擬国連のジャーゴンをそろそろ知識として吸収している頃だろう。ジャーゴンというのは、職業言語や専門用語と訳される単語だけれども、模擬国連でいえば、たとえば「アール・ツー・ピー」とか「ヒューマン・セキュリティ」といったものだ。アール・ツー・ピーはアルファベットで表記するなら、R2Pで、これはResponsibility to Protect(保護する責任)の略称を指している。to2と略すのはいかにもジャーゴンっぽいきらいがあるけれど、とにかくモギコッカーは事あるごとにR2PR2Pと叫ぶ。もう一つのヒューマン・セキュリティは、人間の安全保障と邦訳される。もし内容を知らなかったとしても、皆さんはこの2つのうちどちらか片方は耳にしたことがあるのではないだろうか。

こういった模擬国連のジャーゴンは、あまりに量産化されすぎて陳腐になったために、学問的な検討もなく様々な模擬国連の会議の議論や決議案に刷り込まれている。さらに悪いことに、これらのジャーゴンがあまりに蔓延ったがために、模擬国連の場において、これらの概念が再検討されずに世界の普遍的命題のように扱われたり、西洋の第三世界に対する政治的レトリックとしてのみ扱われたりしているきらいがあるように思われる。これはいささか問題があるのではないだろうか。「模擬国連を通して世界を相対的に見る」という、よくある決まり文句に従えば、私たちが行っていることは、自分の色眼鏡を使って「模擬国連を通して世界を」見ているだけであって、決して相対的な視点にたっているわけではない。しかも、その色眼鏡を形成しているのは、深い洞察に根付いた学問的色彩ではなく、日々流れてくる玉石混合のジャーナリスティックな喧噪であろう。

よく分からない、ちょっとカッコいいジャーゴン。それから、Wikipediaで調べればたくさん出てくる、真偽もつかない無数の「国家像」。これらに基づいて、最近の模擬国連の場においては、相手を論駁して「論理的正しさ」を追い求めているように感じるけれども、専門的に理解されていない専門用語とジャーナリズムが作る世界の虚像を用いて世界観を論理的に構築したとして、残るのはいったいどのようなユートピアであろうか。帝国主義的、原理主義的、そういった我々が否定するイデオロギーよりも醜悪な、インテリゲンツィアになれない私たちの夢物語が残っているのではないだろうか。それは砂上の楼閣であって、積み上げたところで歴史の一風ですぐに崩れ去ってしまうものだ。


そのような無益な、もしかすると有害かもしれない試みを防ぐために、私たちは専門知識を単語だけではなく、その文脈も含めて理解する必要性に迫られる。そのときに私たちは、先輩や同期の言葉に含まれる、引用されたジャーゴンを吸収しようという誘惑に負けてはならないだろう。専門知識はあくまで自分の知として吸収しなければ、自らの血に変わることはない。


こうして、私たちが国際政治を国際政治学もしくは国際関係論、そして国際法やそれに準ずる経済学の知識――knowhowではなく教養――が必要とされることが示された。ジャーゴンをジャーゴン足らしめるには、それを使用するものの専門性の裏打ちが必要となるだろうし、玉石混交の情報の中から何かを掬い取るのは、やはり私たち自身の能力にかかっているとしか言えない。この能力を鍛えるには、読書が最長に見えて最短のルートであることは、おそらくよく知られていることだろう。なので、春休みに読む本として、次世代のモギコッカーに次の本をおススメしたいと思う。



J.Mayallが著し、慶應大学の田所昌幸先生が訳された、『世界政治』という本だ。私自身、読書家ではないため、皆さんにあれこれをおススメできる立場ではないのだけれども、この本は読めば読むほど味の出る「スルメ」な古典なので、皆さんの需要に応えることができると思う。Mayallはこの本で、国際政治において冷戦後に変わったことではなく、変わらなかったことについて淡々と論じてくれる。本のテーマは、「主権、民主主義、介入」であって、それぞれが密接に相互に絡み合っている論題なのだけれども、Mayallの素晴らしい叙述は、読者を混乱の淵におとしいれない。国際政治の多くの知識を必要とするけれども、この際読みながら勉強するのが一番いい。Mayallは、こちらが間違った知識に逃げなければ、体系だった一つの国際システムを僕らに見せてくれていると思う。田所先生の訳がまた秀逸で、これが翻訳書だろうか、と何度も思わされる。難解な国際社会を紐解く本書を、案外スラスラ読みこなせるのは、訳者の素晴らしい含蓄があってのことだろう。心から敬意を表したい。

というわけで、長くなったかもしれないけれども、ここで「この春に読みたい国際政治書」の紹介を終えたい。どちらかというと、何故読まなきゃいけないのか、という方向にブログの趣旨が流れてしまったけれども、この本を敬愛している私の心が皆さんに伝わっていれば幸いだ。Mayallの本の一節を借りて、今回の執筆を締めくくろう。



この書物で提起した第三の命題は、やや思い切った推論である。それは、政治的レトリックや進歩主義的な願望と、現実の動きや利益の世界が乖離してしまい、その結果世界政治で危険な断絶が生じているのではないかということである。わたしは、このギャップが一種の「仮想的リベラリズム」によって隠蔽されているのではないかと示唆した。これは伝統的な世界政治、というよりはむしろ政治一般における偽善――それはいつも悪徳が美徳に払う敬意のようなものだが――の範囲を超えるもので、伝統的に必要とされてきた権力と責任の結び付きを危うくするにいたっている。一九九〇年代前半の国連安全保障理事会が、人道的大破局を終わらせようという意向を繰り返し示したが、それに必要な資源を提供したり、人道問題のもとにある危機を解決する真の政治的意志を示したりすることはなかったということは、よく知られている実例の一つにすぎない。――ジェームズ・メイヨール著/田所昌幸訳『世界政治――進歩と限界』p.3”

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